2020年10月25日日曜日

芋代官の石碑が調査されている模様

最近、芋代官のニュースを目にした。 


芋代官の石碑


 芋代官とは、江戸時代に石見銀山領の代官を努めた井戸平左衛門正明のこと。
 享保の大飢饉の際、いち早く農民救済に動き出し、サツマイモの有効性に目をつけ、あの青木昆陽より先に試作と栽培を始め、石見国の農民を救ったという大恩人です。

 彼の善政により、大森銀山領内での餓死者は一人もいなかったといわれます。その威徳をたたえて、石見を中心に島根県内の至る所に「井戸君」などと掘られた石碑が建っています。

 農民たちは、その恩を忘れないためにも、石碑を建てて功績を称えたのでしょう。
 ただ、石碑設置の年代にばらつきがあり、政治的意味合いで建立された石碑もある、という考えもあります。つまり、悪政時期があり、それを正す意味でも「芋代官の善政」を表に出してきたのではないか、と。

 ともあれ、人命救助のために命をかけて働いた人は、讃えられるべきですよね。

邑南町の歴史的観光名所 ページ案内

 ツイッターでつぶやいていることが多いので、最近のまとめを画像と共に。

久喜銀山

 久喜銀山(久喜地区)の詳細はこちら

今や邑南町が力を入れている久喜・大林銀山跡地。最近、朝日新聞の記事になっていました。

もうひとつの銀山 国史跡めざし(朝日新聞)

 国史跡をめざして文化庁と協議中なのだとか。邑南町内には国指定のものはありませんので、ぜひ実現してほしいところです。

久喜精錬所跡

 上で紹介した朝日新聞の記事では、精錬所跡は随分草が生えているようで、昔ほど賠焼炉跡などがよく見えなくなっているんじゃないかと心配。

 それでも、カラミ原はやっぱり草は生えない。さすが明治時代の産業廃棄物置き場。この地域、当時は公害病も発生していたんじゃないか、と思いますね。

 ↑カラミ原の360度パノラマ写真



 そんな久喜銀山でも、私は岩屋地区がオススメの場所。

久喜銀山岩屋地区

 久喜銀山・岩屋地区の詳細はこちら

 ここは久喜・大林銀山の中でも一番古く採掘が始まった地域であり、戦後昭和26年に再開発された場所で「昭和間歩」が残っています。昭和時代でも、邑南町に鉱山が操業していたってのは驚きですね。

 しかも、その間歩への送風用機械がそのまんま残されています。もとは機械小屋があったのですが、いつの間にか朽ちてしまって機械だけ残ってます。ディーゼルエンジンなので、近くにはその軽油用ドラム缶がころがったままになってます。

 ここは見所。

 ↑送風機械の360度パノラマ写真

2020年10月14日水曜日

旧日貫トンネルの思い出

旧日貫トンネル

 旧日貫トンネルについて、まとめました↓

 旧 日貫トンネルの地理と歴史

 私にとっての記憶は、旧石見町(現邑南町)と旧旭町(現浜田市)の境に位置するトンネルで、まずトンネルに行くまでが結構急勾配の道なので、積雪時は登らない車があったり大変だった記憶があります。

 矢上駅から「浜田行き」の国鉄バスが1日2往復ぐらい運行されていて、一度だけ乗ったことがありますが、トンネルがあっても難所という感じでした。

 ですから、トンネル開通前の「才の峠」と呼ばれていた郡道時代は、さぞかし困難な道だったことでしょう。

 ネット上では、なにやら心霊スポットとして紹介されており、トンネルの上に女の霊が立っていたとか。地元民としては聞いたことない。

 むしろ、旧断魚トンネルや因原のトンネルに幽霊が出たといって学校でうわさになっていたのは覚えていますねー。

 旧日貫トンネル手前に2軒程度の民家があったのですが、いまはもう住む人がありません。

 トンネルに向かう道も土砂崩れがあり、やがては荒れて通れなくなることでしょう。

 そうなる前に、旧旧道は一度確認しておきたいものです。


 ↓旧日貫トンネル前の360度写真(Google map)


 旧日貫トンネルに登る道の360度写真↓

 オレンジ色の流出物がなかなかキモいのですが、土砂崩れも起きています。完全放置状態なので、やがては車が通れなくなるのでは、という気がしています。

2020年6月22日月曜日

戦時中に「鉄滓(とくそ)」を集めていたという鉄不足事情


 邑南町の随所に、かつての鉄穴流しタタラ製鉄跡があります。
 少し山に入れば写真のように、鉄滓(とくそ)がゴロゴロしています。つまり、製鉄時に出てくるカスです。 

 タタラ製鉄の歴史は古代まで遡りますが、この地で盛んに行われたのは戦国時代から江戸時代、明治時代にかけて。
 写真のものは、鉄穴流しのすぐ隣にあるのですが、このように現場ですぐたたら製鉄を行い、鍛冶屋がその場で道具などを作っていたところもあります。 

 この寒村の農家にとっては、重要な副収入になるものでしたが、明治中期には廃れていきました。

とくそ

  ところが、第一、第二次世界大戦時には鉄不足によりタタラ製鉄が復活。 軍刀などが作られるようになります。 
 さらには、とくそには鉄分がまだ多く残っているので、これをも掘り出して利用しようとしていたといいます。 

 まあ、そんなことしていれば「こんなんじゃ、戦争に負けるよね」と皆思う訳です。

 >> 戦時中に復活した「タタラ製鉄」の話(島根県邑南町)

2020年3月14日土曜日

八幡……廃集落といえど、管理されています

昭和51年の八幡
邑南町中野の廃集落「八幡」の、元住人の方から色々とお話を聞くことができました。
もう、90歳を超えておられます。

元々、八幡は20軒程度の集落だったそうで、今現地を訪問すると、綺麗な形で残っている家屋は1軒、土蔵が残っている2軒ぐらいで、とても20軒も住んでいたとは思えません。

その詳しい話や、貴重な写真もいただいたので、サイトの方でぜひ見てください。
>> 廃集落の変遷 八幡(島根県邑南町)

廃集落とはいえ、実はまだ生きています。
管理されているんですよ。毎日のように元住人の方が入っておられます。

ですので、訪問者は勝手な行動は控えてくださいよ。見られてますよ。

しかも、猪ワナなどが掛けられています。オリ方式じゃないですよ。へたに入っていくと、痛い目に合いますよ……。

田んぼもすっかり荒れ果ててますが
八幡宮から「中国自然歩道」が弓張方面へ伸びています。荻原山に行く道なのですが、もはや誰も通りません。
途中でひどい倒木があるようです。
ただ、迂回路があるようです。え、それ何なん?

中国自然歩道